道端でもジムでも、SNSの写真でも、よく目にする“X立ち”。
片脚をクロスして、妙にキメた立ち方。
だが、あれを見るたびに、俺の中の何かがうずく。
「本当に、それが“立っている”ってことなのか?」 日々、鍛え、
整え、磨いている俺からすると── カッコつけとは“中身”があってこそ成立するものだ。
努力が伴わないポーズは、空虚だ。
今日はそんな話を、筋肉と汗と、眼差しの奥から語ろう。
目次
見せかけのポーズに宿らないもの
X立ちは、よく言えばスタイリッシュ、悪く言えば気取っている。
だが気取りが成立するには、土台が必要だ。
肌は荒れ、身体はヒョロつき、眼光には知性の欠片もない──
そんな者たちが、なぜかX立ちでカッコつけている。
努力をしていない身体に、姿勢は宿らない。
形だけなぞる姿に、俺はいつも違和感を覚える。
見た目よりも先に、内側を鍛えるべきだ。
姿勢は魂が出る場所
姿勢は、その人の“日々”がにじみ出る場所だ。
立ち方ひとつで、どれだけ鍛錬しているかが見えてくる。
背中の張り、脚の筋、首筋の角度──全部、ウソをつかない。
カメラの前だけ姿勢を作っても、身体は真実を知っている。
本当に立てている人は、何も意識しなくても美しい。
それは“日常そのものが鍛錬”になっている証だ。
知性も肉体も、削ってこそ
身体だけでなく、眼差しも同じ。
目が語るのは、学びの深さと、自分の中に通した問いの数だ。
日々、読み、考え、積み重ねる──それが眼光に宿る。
鍛えるということは、体も頭も“削り磨く”こと。
簡単に手に入るものではないからこそ、重みがある。
だからこそ、俺は“軽さ”でごまかす姿勢が許せない。
俺が“立つ”ということ
俺は、ただ立つ。 脚をクロスせず、腰を反らず、まっすぐ地に立つ。
重心は丹田、視線は正面。
外見を飾らなくても、“鍛えてきたもの”が姿勢になる。
それは“俺”という存在そのもの。
立ち姿は、俺の過去と誇りを語ってくれる。
“X立ち”の文化的背景
不思議なことに、あの立ち方をしているのは、決まって日本人ばかりだ。
インバウンドの人々──海外から来た人たちは、そうは立たない。
防衛本能か、体幹や筋肉量、価値観の違いか。
彼らは立つべき時に立ち、無理に見せようとはしない。
逆に、日本人は“見られる”ことを前提に立ち方を作っているように見える。
型をなぞる文化が、姿勢にまで染みついてしまったのかもしれない。
“本物の立ち姿”に学べ
本当にカッコいい立ち姿は、静かで、強い。
たとえば、剣道の達人が礼を終えたあとの直立。
マラソンランナーがゴールの直前に姿勢を崩さない最後の一歩。
消防士が出動前にヘルメットを手にして立つ瞬間。
あるいは、職人が完成した作品を前に黙って佇む背中── そういう姿勢にこそ、“心意気”が宿っている。
まとめ
見せかけだけのX立ちは、俺には響かない。
姿勢には、人生が出る。
日々、積み上げてきたものが、静かに滲み出るものだ。
カメラや人の目のためじゃない、自分のために立つこと。
その姿は、嘘がなく、真実に満ちている。
鍛える者だけが知っている、静かな誇り。
それが、俺の“立ち方”だ。
さあ、今日も真っ直ぐ、地に立とう。